法燈円明国師

其の1 法号の由来

国師は諱を心地覚心といった。
国師は宋の無門禅師の法を嗣ぎ、わが国禅宗24派の一つ法燈派をおこした鎌倉時代の高僧である。

亀山上皇、後宇多、後醍醐天皇のご尊信も厚く、特に亀山上皇から法燈国師、後醍醐天皇からは円明国師の勅諡をおくられた。

国師号は大師につぐ法号であって天皇が深く帰依していた僧にその徳を讃えて賜ったものである。

法燈円明国師
紀州由良興国寺 絹本着色法法燈国師画像 重要文化財

其の2 国師の家筋

国師は承元元年(1207)信州筑摩郡神林郷に生まれた。姓を恒氏または常澄氏といいこの地の地頭の家筋であった。

常澄氏は古代の「常不寝見(つねずみ)」、つまり朝廷から諸国へ連絡するための役を与えられていた氏族の職名が姓になったものであるという。国師の家筋もそれに当ると考えられている。

天保9年(1825)の『上神林村明細書上帳』には「古城跡城主相知不申候只今寺地罷成候」とあるが、当寺の境内が常澄氏の居館であったのである。

山門より眺める福應寺
山門より眺める福應寺

其の3 修行の跡

国師は15歳になると浅間神宮寺に参じ仏書に親しんだ。自ら出家求道の念を発し一心に修行をつみ、29歳(一説には19歳)で南都東大寺にのぼり具足戒を受ける。

その後高野山に登り、伝法院主覚仏阿闇梨について密教を学び、さらに金剛三味院住持行勇禅師に謁して禅戒を受けた。この行勇は臨済宗を日本に伝えた栄西の高弟で、鎌倉寿福寺で修行し、三代将軍実朝の尊信の深かった時の高僧である。

実朝が承久元年(1219)に鶴ヶ丘八幡宮に於て殺害されると、その霊をとむらうために高野山に籠り金剛三昧院の開山となっていたのである。

延応元年(1239)には師行勇に従って鎌倉の寿福寺に赴く。仁治2年(1241)に行勇が遷化したので、翌年再び京都に上り、深草の極楽寺で道元について菩薩戒の血脈を伝授された。

其の4 国師の悟

法燈国師坐像国師41歳、宝治元年(1243)の夏のことである。国師は京都から信濃に入り、保福寺峠を超えて、途中小県郡青木村にある大洞山瀧仙寺に寄り(国師開基の寺と伝えられ、国師の頂相がある)、上野国世良田の長楽寺に栄朝和尚を尋ねた。和尚に仏法の根本について教えをこうた。その様子は次のようであった。

師釈円和尚(栄朝)に問うて曰く、仏法の大意如何。円言わく、忍辱精進して、一塵の財をも蓄えされと。つらつらこの言を思い深く肝に銘ず。財はこれ敵なりと。古人楽天言わく、貧賤楽しみあり、心自由なるに、富貴苦しみあり、心危憂するにと。大方の叢林に身を蔵さば、三衣一鉢の外、何物をか蓄えんや。

国師はこの教えを守り終生清貧を楽しんだのである。翌宝治二年国師は甲斐国心行寺を寿福寺の悲願長老と共に訪れ、生蓮和尚について参禅すること三月、「今日までの学問は仏法の根本に迫るものではない」と悟るのである。これが渡宋の契機ともなるのである。

紀州由良興国寺 法燈国師坐像 重要文化財
紀州由良興国寺 法燈国師坐像 重要文化財

其の5 宋での修行

国師43歳、建長元年(1249)3月博多から宋船に乗って宋に渡り、各地で6年間修行をつんだ。なかでも帰国を前にして抗州護国寺の無門和尚との瞬時の出会いが、国師の行き方に大きな影響を与えた。

国師自ら「護国寺の仏眼禅師に参じて、心境を定め畢んぬ」といっている。この時無門から次の一偈をおくられた。それは国師終生の心の支えとなった。

「心即是仏仏即心、心仏元同じく古今に亘(わた)る。古今の心これ仏なりと覚悟して、外に向かって別に追尋(ついじん)することを須(もち)いされ。」

其の6 船中の奇難

国師はその出生から観音の化身であるといわれた。宋からの帰朝の船中のことである。平穏な船旅を続けていたある夕べ、一天にわかにかき曇り、疾風劇浪は船を激しく襲い、船は海に沈もうとしていた。人々はただ恐れおののいていた。

この時国師は安座して念持仏である観音の小幅を帆柱にかけ一心に宝号を称えていた。すると不思議なことがおこった。あたりはしっ黒の闇であるのに、月輪が帆柱に現れ上下すること三返に及んだ。船中は十五夜よりも明るく輝いた。

しばらくして月輪が消えてもとの暗闇にかえると風波はたちまち静まり船中の人々は万死に一生を得たという。月輪は観音の出現であり国師はその化現であったのである。

其の7 母への孝養

慧日大姉塔の立て札国師60歳(文永3年・1266)の時のこと、聖達上人(後鳥羽上皇の霊)の託詞によって母が信州に健在であることを知る。

その後国師は母を伴い由良に帰り、西方寺の門前西ノ谷に一宇を構え母をここに住まわせた。毎日朝夕母を訪い安否を気づかいひたすら孝養の誠をつくした。

母がなくなるとここを修禅尼寺とし、母を開基として恵日大姉の法号を奉った。また国師は母没後61歳から92歳で入寂するまで一日もかかさず跣足で母の墓前に詣で供物誦経を怠らなかったという。

紀州由良興国寺 法燈国師母堂 慧日大姉塔の立て札
紀州由良興国寺 法燈国師母堂 慧日大姉塔の立て札

其の8 国師の遷化

紀州由良興国寺国師は永仁6年(1298)92歳で遷化された。
10月13日朝から変りなかったが、子刻になって、にわかに威儀を正され端坐寂然として衆僧を招き「我れ将に涅槃に入るべし」と言われ入寂されたという。
『鷲峰開山法澄円明国師行実年譜』は遷化の様子を次のように記している。

「師九十二歳、永仁六年戉戍四月十一日、微疾にして食わず。緇素の省問昼夜断たず。月末に至って平癒す。(中略)同十月十三日、旦より夕に至るまで、僧俗機に応じて対談す。子刻に到って、威儀を厳歛して端坐寂然たり。侍僧奉問して曰く、師臨終かと。師応諾し、泊然として逝く。坐化微笑、気貌生けるが如し。」

紀州由良興国寺
紀州由良興国寺