福應寺縁起

阿弥陀如来坐像
阿弥陀如来坐像

神林山福應寺は弘法大師を宗祖とする高野山真言宗の寺である。

草創は、寺伝によれば承安3年(1173)にさかのぼる。即ちこの地の地頭であった平野刑部が、相州鎌倉より当地の守護神として、鶴岡八幡宮を勧請したとき、その本地である阿弥陀如来を安置するために、別当寺として穂屋野山曼荼羅寺を建立したことに始まるという。

曼荼羅寺は現在の福應寺の地より南にあり、寺中六坊を数えた繁栄の密場であった。

星霜移り世は戦乱のちまたとなった天文年代、この地も武田・小笠原両雄のあい争うところとなり、さしもの隆盛を極めた曼荼羅寺も兵火にあい灰じんに帰してしまった。今はただ寺家部落の中にわずかに「中ノ寺」の地名をとどめるのみである。


天文21年(1552)僧俊覚法印は神林の地頭の館跡であったこの地に寺を再興し、山号も地名に因んで神林山福應寺とした。その後元和9年(1624)に、またも火災にあったが、翌寛永2年仏法の随喜を願う村人たちの力によって再建されたという。

江戸時代は筑摩郡上波田村真言宗水沢山若沢寺に属していたが、幕末に至って上神林村が御料所であることから何かと不都合であったために離末を願い出たところ、明治2年(1867)許されて京都仁和寺の末寺となった。その後金剛峯寺を本山とする高野山真言宗の寺として今日に法燈を伝えている。


またこの寺域は神林の地頭の館跡であり、鎌倉時代の高僧法燈国師生誕の地でもある。寺に残されている江戸時代の記録には次のように記されている。

「四方築地ニ面其内東西者三拾間余、南北者弐拾四間余、築地之外ニ者三方堀構ニテ北者川也」

この姿は現在もほとんど変ることなく残されており、中世の土豪の生活を知る有力な手がかりであるとともに、土地に刻まれた歴史の遺構として貴重である。

福應寺外観
福應寺外観